2014: Yasukuni für den Frieden? - Schneiss

8.-9. August 2014, Tokyo

"Ist ein 'Gottesdienst' im Yasukuni-Schrein für den 'Schutz des Friedens' notwendig?"
Eine Veranstaltung der Bürgerinitiative "Lightening peace candles to the darkness of Yasukuni"

2013年安倍首相の靖国神社参拝-ハイデルベルクからの視点
パウル・シュナイス(牧師)


本日ここでお話しできるのは、私にとってたいへん名誉なことです。ご招待に感謝します。

ちょうどクリスマスのお祝いをしようとしていた時に、安倍晋三首相が靖国神社を公式に参拝し たというニュースに接しなければならなかったのは、もちろんショックでした。特に愕然とさせられた のは、世界大戦の経験など自分には何の関係もないと言わんばかりに、近隣諸国の人々の感情 を無視した彼の軽薄さです。この出来事のおかげで、私が「長い戦いの後の和解」あるいは「想起 の治癒」と呼びたいことが遥か彼方に押しやられてしまったように思われたため、私にとって「素敵 な」クリスマスのお祝いとはなりませんでした。ある日本の友人は当時、今年(2014 年)は普通の新 年の挨拶を送ることができないと書き送ってきました。私も同様で、彼の気持ちがよく理解できまし た。

本日私は自分の考えを、いくつかの抜粋を交えてお伝えしようと思います。そして、このシンポ ジウムの他の報告の助けを借りて、歴史、国家と宗教、民主主義と自由との関わり方の問題につ いてより理解できるようになればと思います。

1.私自身の靖国問題との出会い

1958 年、25 歳で初めて来日した際、この国は私にとって全く新しい世界でした。第二次世界 大戦の名残は、〔西〕ドイツよりもなおはっきりと見て取れました。私は上野、渋谷、後には、漁港の ある那珂湊や、真岡への支線でちょっとした「首都」である下館などの田舎でも、この世界に出合 いました。

靖国神社、そして明治神宮は、観光客向けの見世物としてまず知りました。私は伝道師として 来て、5 年後ドイツに帰国しました。この社会で私に不可解なことすべてに挫折、落胆し、それでも 魅了されて。宗教と現代社会におけるその立ち位置も、その一つでした。中根千枝氏の著作は、 この国の社会構造を理解する眼を開いてくれました。第二次世界大戦中のキリスト教会の国家順 応的態度は、国家と宗教の分離の問題を白日のもとに示し、私はこの関係について引き続き考え るよう強いられました。私の神学の先生だった日本人の一人は私に 、日本で天皇主義・国家神 道・軍国主義などは不可分に結びついていることを納得させようとしました。日本の戦後民主主義 は、彼が思っているものとは別物でした。

日本の民主主義の危機は、神社の再国家化に向けた多くの細々とした、つまり地域的な試み を通じて私にもはっきりしてきました。同時にキリスト教会の中では、開かれた民主主義を目指し、 靖国神社の国営化に反対する運動が高まっていきました。日本社会、東北アジアにおける平和創 出を最終目標とする彼らの努力から、私には、靖国神社とその自己理解で問題なのは、一義的に は宗教ではなく、軍国主義、古臭い歴史認識、東アジア地域における覇権の近代的やり口なのだ と次第にはっきりしてきました。日本民族の将来も、いかに過去を捉えるかで決まります。私にとっ ては、過去の過ちを直視し、改めて評価することも含まれます。戦争神社と戦争博物館は、過去の 間違った意味づけへの架橋であって、日本社会における、そしてより広く東アジアの隣人との平和 的共生という未来への道ではありません。

2.安倍首相の靖国参拝に対するドイツ社会(特にメディア)の反応

ドイツには、そのメディアや筆者の政治的立場に全く関係なく、繰り返されるキーワードがいくつかあります。それは、戦争神社、戦争博物館、挑発、侮辱、重荷、右翼ナショナリズム、アジアの ナチス、不安などです。

私が情報を得るのは、ヴェルト、南ドイツ新聞、フランクフルター・アルゲマイネ、フランクフル ター・ルントシャウなどの大手日刊紙、週刊新聞ツァイト、週刊誌シュピーゲルなどからですが、自 分の住む地域の地方紙(バーデン新聞、ライン・ネッカー新聞)もそうです。 安倍首相が靖国参拝で近隣諸国を挑発したというのが、一致した見方です。何といっても靖国神 社では、日本軍人の犠牲、日本人の受難だけが考えられ、何百万人もの近隣諸国の死者は追悼 されません。されるとしても、ついでのことにすぎません。さらに、日本をこの大戦争に誘い、大々 的な殺戮と非人道的行為に導き、その後東京裁判で戦争犯罪人として断罪された人物らも顕彰さ れているのです。安倍首相の靖国参拝は、日本の隣人を侮辱する「計算された挑発」と、より正確 に記されます。どの報道を見ても、靖国神社は結局、宗教的な施設ではなく、戦死者を想起する だけでなく、戦争奨励を助ける「戦争神社」なのです。それで、安倍首相の態度は、右翼保守と書 かれます。彼は、ナショナリズムの熱狂に包まれた「冷徹な打算家」で、戦前の軍国日本へのノス タルジーに生きているというのです。

これに対し、ドイツ政府のスポークスマン、シュテファン・ザイベルトは、「どの国民も、20 世紀の戦争の凄惨な出来事においてどんな役割を果たしたのか、誠実に責任を取らなければならない。 この誠実な責任に基づいて、かつての敵とともに未来を築くことも可能となる」と述べました。

『南ドイツ新聞』は、「確かに彼自身は、参拝を「永遠平和」の誓いと呼んでいる。だが、問題ある靖 国神社の参拝で、日本の安倍首相は、近隣諸国を侮辱した。中国・韓国は彼の「恥知らず」を批 判して、どのみち既に不穏な地域の緊張は、さらに高まった」と明言しています。 と言うのも、ドイツ放送が既に 2006 年に伝えたように、「大戦中日本は神風特攻隊を投入した。これら自殺パイロットたちは、最後の飛行に飛び立つ時、「次は靖国で会おう」と言い合った。つまり、 彼らが死んで以降、その魂はここ靖国神社にある」からです。 ですから、靖国神社は「日本ナショナリズムのシンボル」です。目下日本では「不安を掻き立てる右 傾化」が進行し、近隣諸国の不安を克服するのではなく煽っています。

そして、今年 2014 年のドイツ放送では、「・・・高位の戦争犯罪人を追悼する標識の前でそのように尊崇の念を表明することが、繰り返し中国・韓国政府の抗議を引き起こしていることは、驚くに当 たらない。だが、挑発がもっとエスカレートすることを、昨年 12 月、安倍晋三首相は実証した。彼 は最初の首相として、7 年間の中断を経て靖国神社を再び訪れた〔訳者注:この一文は事実誤 認〕。それもよりによって、領土問題が軍事的にさらにエスカレートしている時期に、である。・・・

・・・だが、そのような象徴的なジェスチャーは、きわめて問題ある歴史政策を示すだけではない。 明らかに安倍政権は、これまで厳格に平和主義志向だった日本の安全保障政策を修正しようとし ている。つい最近、政府は武器輸出の禁止を緩和した。さらに日本は将来、米国のような同盟国 を、必要に応じて軍事的に支援できるように、集団的自衛権を容認するつもりだ。これらはすべて、 機会があれば日本の戦後憲法の変更を要請することになる。そして、それに関する議論自体が、 まさにさらなる不信の種をまくのだ。・・・」と言っています。 私は、ほとんどすべてのメディアで、近隣諸国の反応が非常に高く評価されていることに気づきま した。特に中国・韓国の反応は、詳細に理解を持って伝えられました。このことは、統合ヨーロッパ の中でのドイツの経験を背景に起こっていると私は思います。でもそのことはどこでも示唆するはし ません。ヨーロッパの経験は、必ずしも東アジア諸国の相互関係にとってよい例ではないからです。

「大戦の歴史への日本の取り組み」「日本史の最も暗い章の美化」「安倍の恥知らずな態度」「アジ アの人々の感情に大きな傷」「中国は『どうしようもない、気まぐれで酔狂なリーダー』と呼び、韓国 は『これらの連中と隣国関係の将来を語るのは無意味』」

今年 1 月 3 日の『バーデン新聞』は、「二人の日本のトップ政治家が、戦争犯罪人を含む日本の戦死者の中央追悼所である、東京の靖国神社を参拝した。狙い通りの挑発。・・・侮辱、公然た る挑発、帝国の夢の顕示」と報じています。

日本の現政権が、米国の側に立って新しい戦争を行う用意があるサインを送っていることも、 同じくらいショックを与えています。なるほど戦後ほぼ 70 年間、隣国との対話は、近い将来永続的 な平和が築かれるという展望どころか、相も変わらず具体的な成果をもたらしていません。それに は長い道のりが不可欠ですが、ヨーロッパでも同じです。ヨーロッパではなお、繰り返し論争が起こ り、新たな政治・経済・社会情勢の下、政府と政府の間、国と国の間で対立が議論され、不信が取 り除かれ、橋渡しがされなければなりません。なるほど骨の折れる取り組みですが、新たな戦争準 備や戦時体制の努力に比べれば有望です。でもまず私は、ドイツにおける戦死者のための想起 の文化の経験を二、三お話ししたいと思います。


3.1945 年以降ドイツにおける戦死者追悼 第一次世界大戦後、ドイツでは至る所に-教会でも頻繁に-戦死者の記念碑がつくられました。しかし第二次大戦後は、事情が変わりました。徐々に考えが変化したのですが、その基礎には、50~60 年代に繰り広げられた第二次大戦に関わる歴史論争がありました。連邦議会は 1997年 5 月 15 日-これほど長くかかることもありうるのです!-、次のことを満場一致で決議しました。

「第二次世界大戦は、侵略戦争・絶滅戦争で、ナチス=ドイツが引き起こした犯罪であった。」ユダ ヤ人やシンティ・ロマを見ればあまりにもよく知られているように、民族全体・民族集団全体の根絶 が予定されていました。連邦議会はそこで、「兵士一人が行うことは、指導部の目標・同義と切り離 すことができない。祖国愛と勇敢さが悪用された。自由・厚生のうちに平和を守りつくることに向け られれば、それらは美徳である」という文章も盛り込みました。

「極右勢力を例外として、ドイツ社会は、学問的認識、社会の道義的原則と一致して、1933~45 年からの教訓として、未来へのドイツ人の一般的責任を語り、その意味でドイツ人の特別な平 和義務を要求することで了解している。」(Rolf Wernstedt, Deutsche Erinnerungskulturen seit 1945 und der Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge e. V., S.19)

「ドイツの犯罪に関する議論は、連合国の戦争犯罪についても語ることを不必要とはしない。歴史 的な行為連関を黙せず、責任を軽減する誤った論法を見出そうとしないことが重要である。

戦争には多くの父親がいるという、しばしば見かける、ドイツの罪を相対化する議論は、まともな 歴史家が唱えることはない。それはたいてい極右の側から持ち出され、その際学問論争でも何で もありという考え違いが広められている。この態度から、あらかじめ思い込んだ意見を修正しないで 済ませることができる。しかし歴史研究の意味は、新たな認識が間違いの修正にも導くことにある。 一見学問的な、しかし見え透いて政治的動機による無意味な議論も存在する。ホロコーストの否 定は、そのような事例である。だが研究とは、事態の解明に関係する。第二次大戦の単独責任は 明白で、いかなる相対化も政治的にしか理解できない。」(a.a.O., S.20-21)

さらに引用を続けます。

「さまざまな研究の結果・・・第二次世界大戦は、ドイツ側に関して言うと、現代のあらゆる戦争 に対して一つの特徴を有しているという認識が広まっている。上に引用したドイツ連邦議会の言明 は、この確認に基づいている。それによればナチス=ドイツは、戦争に直接関係する残虐さで侵 略・征服戦争を行っただけではない。プロイセンのフリードリヒ 2 世によるシュレージエン戦争、ナ ポレオン戦争、植民地戦争など、それは過去何世紀にもわたりしばしば起こっている。ドイツは東 部(ポーランド、ロシア、ウクライナ)で、住民全体に向けた絶滅戦争を始め、その支配領域に住む ユダヤ系住民の根絶を組織した。民族的、かつ/または宗教的少数派全体を体系的に、そして 収容所で工場のように絶滅するという考えは、それまで誰も思いつかなかった(1915 年以降の青 年トルコ党体制によるアルメニア人虐殺は、まだナショナリズムで正当化できる次元にあった)。

1979 年以来ドイツでホロコースト、ユダヤ人の間ではショアーと呼ばれている大量犯罪は、ドイ ツ人にとって、自分たち自身および世界における自分たちの評価に関して言うと、いかなる想起と検証に際してもあらゆる考察の出発点でなければならない。」(a.a.O., S.33f.)-もっとも私は、想起 と検証だけでなく、基本的には今日的な政治決定すべてに際してもそうでなければならないと思 います。政治的な思考と行動全体を規定しなければならないのです。

「これは〈犠牲者ランキング〉でも、また教育上の優先リストでもなく、歴史的な評価基準なのである。 ドイツ人も犠牲者と認めることは、〈加害民族〉としてのドイツ人の基本状況を軽減するものでは決 してない。」(ebenda)

もう一カ所引用させてください。

「他の歴史を持つ他の民族は、この言説をずっと遅れて始めるか、今日に至るまで拒絶してい る。フランスでは、ナチス=ドイツへの協力について幅広い社会的議論がないし、クロアチアでは ウスタシャの犯罪、セルビアではボスニア人に対する非道、ウクライナでは対独協力、イタリアでは ファシズムへの熱狂、日本では中国における残虐行為、ポーランドでは反セム主義が議論されな い。しかしそのことが、ドイツの誰の責任も免除するわけではない。

それどころか、ドイツにおける、また他民族に代わってドイツ人による留保なしの罪責言説が初め て、不問に付されてきた自己の責任や対独協力を再検討する前提をつくると仮定する根拠すら存 在する。」(a.a.O., S.37f.)

国内外の軍人墓地に加え、二つの世界大戦での戦死者の名前を記した銘板、反ナチ抵抗運 動の男女の名前を記した銘板は、ドイツのどの町・村でも見出すことができます。ちょうど 2 週間前、 ドイツでは多くの人が、1944 年 7 月 20 日に、当時の悪辣な政治指導部に抵抗する勇気を持った 男女に思いをはせました。彼らはそのために、死ななければなりませんでした。ガウク連邦大統領 はこの機会に、感銘深い追悼演説を行ったのですが、それは、戦争と不法の犠牲者への一つの 想起の文化と言えます。

最近できた記念碑、より正確に言えば警告碑の一つは、ベルリンの帝国議会の脇にあります。 シンティ・ロマの迫害と絶滅に捧げられた碑で、2012 年 12 月に落成しました。しかし、想起の作業 は続きます。目下多くのところで、安楽死の犠牲者の名前を記憶に刻む努力が行われています。 何百人、何千人もの人が、ナチスとその手先によって殺害されたのですが、その名前は忘れ去ら れています。現在、その名前を忘却からすくい出そうと熱心に取り組んでいる人たちがいます。あ るいは、かつてユダヤ人やシンティ・ロマらが絶滅収容所に移送される前、最後に住んでいた住居 前の歩道に銘板をはめ込む「躓きの石」のアクションもあります。民主主義のドイツでは、なお多く の想起の作業をしなければなりませんし、極右勢力の歴史歪曲に対抗しなければなりません。

「ペーター・グロッツは死の数週間前、『どの民族も、加害者・共犯者・同調者・犠牲者から成る 厄介な混淆だ。ドイツ民族がヒトラーの掌中にあって、あまりに多くの加害者・共犯者・同調者を生 み出したことは、疑いない。だが、やはり存在したドイツ人犠牲者のことを考えないという理由はな い』と記した。」(a.a.O, S.61)


4.21 世紀ドイツにおける国外派兵戦死者の追悼

2002 年以来、54 名のドイツ兵がアフガニスタンで亡くなっています。第二次世界大戦以降初 めて、ドイツで「戦死者」がでているのです。大半は 20 代の若者です。最初は事故でしたが、その うち「敵」による殺害が増えました(2001~2010 年の間に、約 160 名の兵士が負傷しました)。 (http://www.tagesschau.de/ausland/afghanistan2270.html)

2007 年、当時の連邦国防相が、連邦軍の栄誉記念碑の計画を立てました。来訪者が公に立 ち入ることができるのは不可欠でしたが、」「個人的追悼の必要」も考慮に入れなければなりません でした。それまで栄誉記念碑は三軍の立地にありましたが、ここは「品位ある形で連邦軍の全死者 に思いをはせる」「中心的な場所」となるものでした。栄誉記念碑は今、「ベンドラーブロック(1944 年 7 月 20 日事件で抵抗運動グループの中心)の敷地、連邦国防省のベルリン庁舎」にあります。2009 年 9 月 8 日に落成式が行われました。

その空間は、「静謐の空間」で、ウィキペディアによれば「約 5 秒毎に勤務中死亡した 3100 名 以上の兵士の名前が壁に映し出される。そういうわけでそれはビデオ装置に近く、名前が石、金 属あるいは木に永続的に刻まれている伝統的な戦士記念碑や記念銘板とは異なっている。これ により、英雄顕彰は回避され、その代わりに生命のはかなさ、死の個人性が強調されている」との ことです。この栄誉記念碑がどの程度個人的追悼の欲求に適うものになりうるかどうかは、なお未 解決の問題です。

陸軍の栄誉記念碑は 1972 年、コーブレンツのエーレンブライトシュタイン要塞に、空軍のものは 1962 年ミュンヒェン郊外のヒュルステンフェルトブルックに、海軍のものは 1926 年、キール郊外の ラベーに設置されました。 その他の栄誉記念碑や追悼碑は、ドイツ兵が亡くなった国にあります。

「死者への孤独な思い」。今年 4 月 27 日のカトリック軍司牧の報告を引用したいと思います
(http://www.kmba.militaerseelsorge.bundeswehr.de/portal/a/kmba)

「ドイツは、外国で戦死した兵士との関わりに困難を抱えている。たしかに『想起の森』が今年中 に〔ポツダム近郊に〕開かれる予定だ。だが、栄誉記念碑は自由に立ち入りできない。それはむし ろ、ブランデンブルクに隠れている。・・・

この間 103 人にのぼる外国での戦死者のために計画されている連邦軍の記念碑で、見るべきものはまだ多くない。すべての死者の名前が載った 7 枚の石板、いわゆる想起の道、情報館に『静謐の場』がゲルトウにできる予定だ。・・・ 栄誉記念碑の入り口に、過去と現在の国外派兵の写真展がお目見えする予定だ。約 200 メート ルの長さの想起の道の最後にある『静謐の場』では、追悼する人たちが死者のためにロウソクを灯 すことができる。・・・

『想起の森』が、たとえば米国ワシントンのアーリントン墓地に比べずっと簡素になることも、遺族に は受けがいい。『ある種の英雄崇拝は意識的に避けるべきだ。』・・・」


5.戦死者なき世界を目指して

私の最初の反応は、「お願いだからもう戦争をしないで!」です。その代わりに平和的手段による紛争解決の準備が、これまで何度も訓練され実践されてきました。非軍事的紛争処理や、暴力・ 戦争予防もあれば、紛争時には国際司法裁判所(ハーグ)もあります。そしてそれに伴って、あら ゆる挑発の放棄もあります。

ドイツの平和研究者の一人、フランクフルト大学のエルンスト=オットー・チャンピール教授は、2000 年 10 月 23 日の『シュピーゲル』に、「敵なき世界」という考えを提唱しました。もし人類がそこ に達すれば、もはや戦争も戦死者もないでしょうに。彼は、哲学者カントの「市民は戦争を望まな い」を引用しています。

「1950~73 年の〈黄金期〉に頂点に達した社会経済的発展は、二つの大きな戦争原因を弱め た。それは、独裁的な支配秩序と、国際システムのアナーキーな構造に基づく、隣国の意図に関 する不確実性である。・・・

安全保障はとりわけ、それを準備することで常に脅威と戦争とを先取りする防衛と同一ではな い。・・・

今日国家が安全なのは、どちらも覚悟する必要がない、つまりもはや敵がいない場合のみだ。そのような状況はユートピア的ではなく、西欧では既に実現している。21 世紀のチャンスは、その 拡大にある。今日安全保障政策は、武力攻撃を撃退する以上のことができる。要するに、その原 因を取り除くことだ。それは、誰か特定の人物よりも-人物も大事だけれど-、支配の携帯と国際 システムのアナーキーに根差しているのだ。

それを変えるのに、軍事力は不要だ。求められるのはむしろ、実際には非常にハードになりうる ソフトパワーだ。それは、国家の対外政策の諸条件を変えるパワーを投入する。それこそ、パワーの最高の発展形態だ。それは侵略を待つのではなく、侵略を生み出しかねない諸構造を取り除く。 ソフトパワーは、国際紛争の非暴力的処理を制度化し保証する政治秩序を組織する。ソフトパ ワーは構造的パワーで、・・・たしかに 10 年単位でものを考え、中期的に初めて効果を及ぼすが、 持続的な安全を生み出す。

予防政策により、テロリズムや内戦すら打ち勝つことができる。政治的テロを片づけられるのは、 暴力が解き放たれる前に基本的な問題を解決した者だ。内戦の根底には、しばしば脱植民地化 の残滓としての支配の軋轢がある。貧困と欠乏が、社会的背景を形成する。これらの要因の予防 的変化の上に、紛争解決が影響力を及ぼせる。一旦暴力が噴出すると、たいてい救助は遅きに 失する。ユーゴスラヴィアでそうだったし、今アフリカでもそうだ。そのくせ欧州連合は、30年前から 全アフリカ諸国と密接な関係があるのだ。

パラダイムの転換は、どこでも容易ではない。旧来の現実政治は、伝統に深く根を下ろし、政 治の利害の網の目に多くの枝葉を持っている。この職務遂行工場を現代化することに、知識社会 は多大のコストをかけなければならない。だが、投資は割に合う。戦争原因を取り除くことで、安全 を保障する現代的な対外政策は、昔ながらの防衛政策よりも安上がりなだけではなく、ベターなの だ。」

自らの権力維持のみをもくろむ旧来の政治的・軍事的な解決の試みからの決別、暴力予防・ 戦争予防志向、非軍事的な紛争処理。軍拡を通していわゆる敵に対し、自分が強い、自分の方 が強いと見せることしかせず、結局敵側の軍拡を促す代わりに、戦争を望まず、いかなる紛争も忍 耐・敬意・率直さで解決したいという用意を示す。たしかにそれは骨が折れるでしょうが、最終的に はいかなる戦争準備・武力行使よりも成功するのです。

そのための重要な「礎石」は、常に自己の見方しか想起しない一面的な歴史解釈からの解放と、 他者の歴史解釈に対する不安からの解放です。共通の歴史の共通の解釈しか、問題になりませ ん。そうしてのみ、「想起の治癒」が起こりうるからです。そこから、他者も含めた新しい安全保障思 考が育つのです。 そうすれば、戦死した兵士や民間の犠牲者も、一緒に追悼できます。ヨーロッパでは合同の追悼 式典がよくあり、ここ数年ドイツ人が列席するのは当たり前になっています。

カントは「市民は戦争を望まない」をどう言ったか。どの市民も、自国でも他国でも、です。そのような紛争解決の民主主義を、私は日独両国に望みます。

翻訳:木戸衛一(大阪大学)






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