2014: Yasukuni für den Frieden? - Uchida

8.-9. August 2014, Tokyo

"Ist ein 'Gottesdienst' im Yasukuni-Schrein für den 'Schutz des Friedens' notwendig?"
Eine Veranstaltung der Bürgerinitiative "Lightening peace candles to the darkness of Yasukuni"


戦没者追悼と靖国神社


内田雅敏(弁護士)


靖國問題解決の第一歩は国立追悼施設の建設にある

1952年5月、官民挙げて発足した『全日本無名戦没者合葬墓建設会』

安倍首相の靖國神社参拝に対し韓国、中国はもちろんのこと、欧州からも批判が起こり、米国 からは「失望した」というコメントがなされた。安倍首相は、参拝に際し、「国のために戦い、尊い命 を犠牲にされたご英霊に対して、哀悼の誠をささげ」た、と述べた。今、「国のために戦い、尊い命 を犠牲にされた」云々はさておき、韓国、中国らが何を批判しているかは正確に認識しておかなけ ればならない。靖國神社参拝を巡っては、戦没者の追悼・慰霊はどこの国でもやっていることで、 批判される筋合いのものではない、内政干渉だ、と声高に語られる。韓国、中国らは死者への追 悼、慰霊を批判しているのであろうか。このことは、同じ8月15日に日本政府主催で行われる「全 国戦没者追悼式」と比べてみれば、容易に分かる。韓国、中国らが、「全国戦没者追悼式」を批判 したことはない。韓国、中国らの批判は、死者に対する追悼、慰霊でなく、靖國神社に参拝すると ころにある。何故靖國神社参拝が批判されるのか。それは靖國神社が、東条英機元陸軍大将らA 級戦犯を合祀しているからである。では分祀をすれば問題は解決するのか。そうはならない。靖國 問題の本質は、A級戦犯の合祀にあるのでなく、A級戦犯合祀にふさわしい靖國神社の歴史観に こそある。靖國神社は、アジア・太平洋戦争は侵略戦争でなく、植民地解放のための聖戦だった、 と世界で通用しない特異な歴史観に立つ。遊就館の日中「戦争」コーナーでは、日本軍が中国大 陸を破竹の勢いで「進軍」するニュースフィルムを無反省に流し続けている。もし、ベルリンで、ドイ ツ戦車軍団の電撃作戦のフィルムを流し続けていたら、欧州において戦後、ドイツという国は存在 を認められただろうか。

私たちは、アジアで2000万人、日本で310万人の死者をもたらしたあの戦争の「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)前文に「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにする ことを決意し」と謳った日本国憲法を制定し、戦後の再出発をなした。1972年田中内閣の日中共 同声明、1985年の中曽根首相国連総会演説、「我国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦 争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけ アジア諸国の人々に対し、多大な損害と苦痛を与えました。私は未来に過ちなからしめんとするが ゆえに、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、 心からのお詫びの気持を申し上げます」と述べた1995年の村山首相談話、これは前記憲法前文 の精神を受け継いだものだ。村山首相談話は、1998年、小淵内閣の日韓共同宣言、2002年、 小泉内閣の日朝平壌宣言、2012年、韓国「併合」100年を迎えての菅直人首相談話等に引き継 がれており、日・中・韓・朝間での国際的合意となっている。靖國神社の歴史観はこの国際的合意 と真逆の関係に立つ。そのようなところに日本の指導者が参拝すれば、世界から批判されるのは、 当然である。戦没者を追悼するという、何処の国でも「当然」とされることが、「聖戦」という特異な歴 史観に立つ靖國神社で行われるから問題が生ずる。何故、戦死者の追悼は靖國神社なのか。靖 國神社の戦死者独占の「虚構」にこそ靖國問題の本質がある。靖國問題解決の第一歩は国立追 悼施設にある。

元外務官僚東郷和彦氏は、さすがに靖國神社のA級戦犯の合祀、歴史観、遊就館の展示などには疑問を呈し、これらの改善を促し、改善がなされるまで首相の靖國神社参拝を猶予すべきだと主張し、以下のように述べる。

「首相の参拝にモラトリアムを……おそろしく単純なこと…… 翌2005年の春のある日、バンク・ストリートの街路樹が新緑をさらさらと鳴らしているのを窓外に見 ながら、考えていた。

『靖国には行くべきだ』『だが、コストが高すぎる』『どうしたらよい                だろう』 あらためて幾重にもねじれた問題の経緯に思いをはせて、ため息をつくうちに、突然、ハッと思い ついた。おそろしく単純なことだった。

『そうだ。靖国が抱えている問題点を解決する。その間、一時的に、総理の訪問を中止すればい いんだ』」(『歴史と外交、靖国・アジア・東京裁判』講談社新書2008年12月刊)。 歴史家の保坂正康氏も以下のように言う。

「一般にいう「靖国問題」とは、二つの本質的な問題と二つの現在の問題にしぼられるのではない か。現在の問題とは、一にA級戦犯の合祀についてであり、二に遊就館の展示に見られる歴史認 識である。こうした現在の問題の背景にある本質的な問題として、一に国家護持、あるいは国家が かかわっての戦没者の慰霊のあり方である。そして二として祭神に祀られる戦没者の、その遺族 からの祭神取下げの訴えに含まれている問題である。・・・・わたしはさしあたり現在の二つの問題 について何らかの手直しや改正が必要ではないかと考えている。そうしなければ靖国神社そのも のが国民の関心を失いその存在がしだいに薄れてゆくように思う」(『昭和史の大河を往く  「靖国」という悩み』2013年中公文庫)。

保坂氏のいう、現在の問題としてのA級戦犯合祀と遊就館展示の二つは、結局のところ、先の 戦争がアジア解放のための戦いであったという靖國神社の「聖戦」史観に収斂される問題である。 又、保坂氏が本質的な問題としての掲げる二つも、戦死者の追悼のあり方に収斂される問題であ る。保坂氏のいう「なんらかの手直しや改正」というのは何を意味するか。推測するに、前記東郷和 彦氏がいう、「靖国が抱えている問題点」と同様な、すなわち、A級戦犯の分祀、遊就館の展示の 改善を意味すると思われる。しかし、この「改善」は不可能である。靖國神社の抱える前記問題点 は同神社の「聖戦」史観に起因するものであり、靖國神社の「聖戦」史観は、英霊の顕彰、英霊の 再生産という靖國神社の設立目的、出自による靖國神社そのものであり、靖國神社が、この「聖 戦」史観を改めるならば、その瞬間に、靖國神社は、「靖國神社」でなくなってしまうことは、この間、 繰り返し述べて来たところである。東郷氏は、「靖國に行くべきだ」とアプリオルに述べる前に、「戦 死者の追悼は、何故、靖国なのか」ということについて考えてみるべきである。「戦死者の魂独占と いう靖國神社の虚構」の闇は深い。 保坂氏についても同様である。「靖國神社が国民の関心を失いその存在がしだいに薄れてゆく」 ことが何か問題があるのだろうか。保坂氏は、前掲書で遊就館の展示に付き以下のように記して いる。

「もとよりわたしは、『戦後民主主義』で、この展示館を覆いつくせ、などというのではない。しかしそ の片鱗もないとすれば、戦後とは一体何だったのかという問いが必要になってくる。わたしは、昭 和十年代のこの国を支配した歴史認識は、近代日本の流れの中では亜種と思っている。本来の 流れが著しく歪んでしまったと表現してもいい。・・・靖国神社の境内にある遊就館はそういう考え 方を採っていないというのは分からないでもない。なにしろ祭神は『お国のために犠牲になった戦 死者』なのだから、その祭神が死を賭した歴史観を否定してしまったら、自己矛盾になる。まったく 違う歴史観が、示されたら、祭神は納得しないだろうと考える国家間、歴史観、死生観をもとに遊 就館は存在していることになる。このことは遊就館が、祭神となった、『戦死者』と共に存在している のであって、その歴史認識は昭和十年代で止まっているとみるべきなのである。『今』の中に『六十 余年も前の時代』が存在していることに同意できなければ、遊就館は見学すべきではないというの が私の考えでもあった」。保坂氏自身が遊就館=靖國神社の「聖戦」史観を「改善」することはでき ないのではないかと述べているとおりである。ただ、保坂氏が、靖国問題の抱える本質的な問題としての戦死者の追悼という観点から「靖国神社が国民の関心を失い次第にその存在が薄れてゆ く」ことを危惧するというのならば、それはそれで理解できなくはない。しかしその危惧は《靖國神社 による戦死者の魂独占の虚構》という補助線を引くことによって簡単に《解》を求めることが出来る。 それは、東郷氏の言葉を借りるなら《恐ろしく簡単なこと》なのである。しかし、《戦死者の魂独占と いう靖國神社の虚構》の軛を脱するだけでは十分ではない。フィリッピン、レイテ島で父を亡くした 筆者の友人がいるが、彼女は毎年、8月15日の喧騒を避けて8月半ば過ぎに靖國神社と千鳥ヶ 淵戦没者墓苑を参拝している。彼女は靖國神社の体現する「聖戦」史観も、また、A級戦犯合祀 についても批判的である。にもかかわらず、靖國神社参拝をする彼女の気持ちを忖度するならば、「参拝するところは靖國神社以外にないではないか」という事ではないだろうか。保坂氏前掲書も A級戦犯合祀と遊就館の歴史認識には強い不満を漏らしつつも、「ここに来るより仕方がないだろ う。親父はここにしかいないのだから」と言って靖國神社を続ける友人について記している。「彼は、『私は、自分の父親とそしてそれと同じような状況で戦死した人たちを慰霊しているのであって、戦 没者以外の昭和殉難者などを慰霊しているわけではない』と漏らしつづけていた)と記した保坂氏は、彼は心の中でA級戦犯を「分祀」していたのではないかと述べている。「親父はここしかいな い」と漏らす遺族に対して、《靖国神社による戦死者の魂独占の虚構》という補助線を示すだけで は、靖國問題の「解」を提示することにはならない。もう一つ《国立追悼施設に建設》という補助線 が必要である。先の戦争がアジア解放の戦いであったなどと、日本政府の公式見解に反し、また 世界で全く通用しない「聖戦」史観などを唱えることなく、無宗教で、誰でも、またいつでも、静かに 戦没者の追悼をすることのできる国立追悼施設を設けることによって、巷間言われる靖國問題の 多くを解決する事が出来る。

1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効から3日目の同年5月1日、官民挙げての

「全日本無名戦没者合葬墓建設会」が発足した。総裁・吉田茂、会長・村上義一運輸相、副会長・ 草場隆円厚生相、同・一万田尚登日銀総裁、同・石川一郎経団連会長、関桂三関経連会長らが 役員に名を連ねた。政府の組織ではないが、首相らが先頭に立つって、全国の市町村長を通じ、 建設資金として一戸、10円の募金集めも始まった。建設会の設立趣意書は以下のように述べて いる。

「米国にはアーリントンに無名戦士の墓があり、英国にはトラファルガー広場に無名戦士の塔があ り、仏国にはパリ凱旋門内に無名戦士の墓があって、何れも全国民により毎年鄭重な祭典が行わ れておりますが、それは人道上当然なことで、私どもは、わが国にもその必要性ありと考え、…戦 没者は全部靖国神社に合祀すれば足りるではないかと言う人もありますが、同社は主として戦死 軍人軍属の御霊を祀る所で、一般戦没者には及ばず、而も御遺骨を埋葬する場所ではありませ ん。その上、神道以外の宗教とは相いれないものがあって、友邦の外交使節の参拝を受けること もどうかと存じますから、御遺骨の実体、各宗派の外交上の儀礼の点から考えても、靖国神社とは 別に霊場を造営する必要があります。…大霊園を創り、毎年春秋に、神、仏、基(キリスト教)の各宗派によって、厳粛な祭典を挙行し、後代再び斯様な犠牲者を出さないよう世界恒久の平和を祈念することに致したく・・・」 軍人軍属だけでなく、戦没者のすべてを対象とし、宗教各派の垣根を越え、外国の使節も迎えることのできる「国立追悼施設」が目指されていたのであった。 この構想が実現されていれば今日のような「靖国問題」は生じなかったと思われる。ところがこの構 想は、戦死者独占という「虚構」を生命線とする靖國神社、日本遺族会らの反対で実現しなかった。 2001年12月小泉内閣の福田康夫官房長官の私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記 念碑等建設のあり方を考える懇談会」が作られた。同懇談会は一年ほど議論を重ね、「先の大戦 による悲惨な体験を経て今日に至った日本として、積極的に平和を求めるために行わなければな らないことは、まずもって、過去の歴史から学んだ教訓を礎として、これらすべての戦没者を追悼 し、戦争の惨禍に深く思いを致し、不戦の誓いを新たにしたうえで、平和を祈念することである。これゆえ追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正 式に作る意味がある」として国立追悼施設が必要という報告書を作成した。この報告書は、私たち が、アジアで2000万人以上、日本で310万人の死者を生み出した先の戦争の「敗北を抱きしめ て」(ジョン・ダワー)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意 し」という前文を有する憲法を制定し、戦後の出発をしたという歴史的事実を、踏まえた上で、顕彰 でなく、追悼することによって、非業、無念の死を強いられた死者たちの声に耳を傾けようとするも のであって、共感できる。

今からでも遅くない、すべての戦没者を追悼する無宗教の国立追討施設を設けるべきである。 そこでは戦没者に感謝したり、戦没者を称えたりしてはならない。称えた瞬間に戦没者の政治利 用が始まる。戦没者に対してはひたすら追悼し、再び戦没者を出すことをしないという誓いがなさ れなければならない。