2014: Yasukuni für den Frieden? - JAPAN

8.-9. August 2014, Tokyo

"Ist ein 'Gottesdienst' im Yasukuni-Schrein für den 'Schutz des Friedens' notwendig?"
Eine Veranstaltung der Bürgerinitiative "Lightening peace candles to the darkness of Yasukuni"

遺族証言、日本

日の丸を洗う
神奈川平和遺族会  津波古  勝子

神奈川平和遺族会の津波古勝子と申します。

1985年、中曽根総理が靖国神社公式参拝をした折、私たちは「戦争美化」の政策に抗議して「平和遺族会」を結成しました。三年前までは毎年八月十五日敗戦の日に靖国通りを平和行進し ましたが、高齢化が進んで今は集会のみとなり今年は靖国神社近くの「九段協会教会」で行いま す。皆様、どうぞおこし下さいませ。

さて、本日のテーマは勇気をふり絞って「日の丸」の話をしたいと思います。国の象徴であるべき 国旗が諸外国から「悪の象徴」のように言われ、事実人間としてあるまじき行為を特にアジアの 人々に対して申し訳の立たない事をしてしまった。

二千年の長い歴史と文化の旗印であった「日の丸」が僅か百年の間に様々な染(シミ)と傷を 負ってしまったのです。取り返しのつかない歴史の事実を識ってしまった私たちは今や「日の丸」 を憎悪の対象としつつも、こうして人前に身を曝し恨みがましく訴える自らを悲しみます。

私だけでなく多くの日本人が同じ思いをしているでしょう。世界のどこに自国の国旗を悲しみの 対象とする国民が存在するでしょうか。私たちは世界一不幸な国民だと思います。

私は一九三九年にフィリピンで生まれました。三歳で父が戦死しまして七歳で母は再婚、戦後の「どん底」で毎日死ぬことを考えて生きていました。

一九五二年「ペリー百年祭」がありまして、中学生の私たちは「日の丸」の小旗をふりながら那覇 市内を行進しました。今にして思えば、あれは「祖国復帰運動」の始まりだったのでしょうか。「祖国 日本へ、日の丸の下へ」  県民の切なる悲願でした。

色々な問題含みの中、沖縄の祖国復帰が叶ったのが一九七二年。しかし県民の夢は尽く泡と 消え果て悲鳴に変わりました。360円だったドルは308円に換算され、逆に物価は50%近くも値上 がりし、苦しみの連続でした。

それでもお正月が来ると「日の丸」を掲げて家族で祝い、日本人としての誇りをかみしめたもので す。

しかし、それは甘かった!非常に甘かったのです。戦後三十年経っても日米両国の沖縄への仕 打ちは過酷でした。一九八七年、読谷高校女子生徒が卒業式壇上の「日の丸」を引きずり降ろし ドブに捨てたニュースは本土でも大きく報じられたと思いますが、同年十月には知花昌一さんが沖 縄国体競技場で「日の丸」を焼き捨てました。

皆さまと共々に、「日の丸」の果たして来た侵略戦争の暴挙について学び、人間としての真理、真実を思考するに及んで、世界へ、特にアジアの人びとへどのように償うべきか苦悩します。

最近、「憲法九条へノーベル平和賞を」という活動が盛んです。大変すばらしいスローガンです。 その前になすべきことがある。「日の丸」の浄化です。「日の丸」を洗い、「日の丸」に染みついた汚 れを一つ一つ丹念に時間をかけて洗い流す。それは私たち日本人だけではできません。中国、 台湾、韓国をはじめ東南アジアの人びとの助言、手助けが必要です。いつまでも批難しあうだけでなく、いかにしてそれぞれの心の傷を共通の傷みとして助け合い、未来の子どもたちの為に、平 和に向けて共存できる方法を、今ここから半歩でも前へ進める事が適うなら私は喜んで「人柱」に なりましょう。

この問題はとても危うい。時間と忍耐と、時に新たな「火種」になるかも知れない非常に厳しい「問 題提起」です。皆さん、どうか共に手を携えて「日の丸」を洗いましょう。

様ざまな方法があると思います。手近な所から、得意な方法で、一つ一つ染を浄める、薄めるだ けでもいいでしょう。何はさておき「未来のために」辛い悲しい事は忘れるのではなく、そのままにし て置くのでもなく、知恵と力を出し合って解決の道を探って参りましょう。それは正しく「日の丸」を 洗うことに繋がると思います。

一人一人の幸せを願って!  失礼しました。